4196本の大きさ

2024年02月16日(金)

①文庫本文化

「本はハードカバーだろう!」ぼくはそんな時代が長かった。安易な、簡易な文庫本を嫌っていた時代がある。がっつりしっかり単行本に向かっていく、そんな構えが自分的にはかっこいいと思っていた。そんなことだから本棚にずらっと並んだハードカバーの重厚なスタイルが気に入っていた。本には「本になる」必然性がある。そして初版に出た本のスタイルがその本の性格を表すことになる。だから再版されて表紙や装丁が変わると「え?そんなだったっけ?」と首を傾げたくなる。これは昭和のレコード世代。レコードのジャケットにこだわるところににている。レコードの場合はジャケットが命ってくらい。変形ジャケット、変わり種、仕掛け絵本タイプ。これらがCDになってほとんど全滅。平板な画一的なプラケースになってしまった。本も同様。同じハードカバーとはいえ、その作り方、紙質、帯など多彩だ。それが文庫になると総て一律。ただの四角い板チョコになる。その無個性さがいやだった。様々な本が自身を主張する単行本スタイルが好きでこだわっていた。特に難しい本の場合、文庫本の小ささは「ようし、やったるで。」という気持ちを削ぐ。ちっこいし、ページも進まない感じ。

②弁当箱

 最近、その考え方が変わった。一様な大きさの文庫本は謙虚な感じ。同じ形だけど中身が大幅に違う。そして内容のある本だとその意味の含有量はハンパない。それが小さな筐体にぎっしりと納められている。それでいてハンディ。まさに究極のモバイルガジェットだ。電源要らず。どこでも読める抜群の携帯性。日本家屋の事情にも優しい省スペースである。ぎっしり詰まったお弁当箱のようなイメージだ。

 自分の部屋にいくつもの本棚を置いて本をたくさん収納していた、そんな時代は終わった。インプットではなくアウトプットのためのツールとしての本だ。そうなると読み終わった本。必要なものもあれば、読んで終わりというものもある。せっかく購入した本だからもったいないと思ってきた。その気持ちは痛いほど分かる。大学時代、バイトして本を買っていた僕としては本はとても貴重だった。しかし、今は違う。読んで自分に入ったものだけで十分だ。

 こうなると図書館の利用も始めてみた。今まで図書館ではろくな本がないと思っていたけど、行ってみるとかなりおもしろい。自分では決して選ばない、ジャンルの本に出会える。ただし、読むのが遅い僕にとっては2週間の貸し出し時間はあわただしい。だからやっぱり本を買ってしまう。今のところは本は紙出読むキンドルっぽい。読んだら終わり。処分もOK。お金を払って本を読んでいると言う状態だ。無限貸出期間の本を借りている感覚だ。

 で、やはり文庫本。これは日本の優れた知だと思う。ありがたい。分厚いずしっとくる文庫本を手にすると幸せを感ずる。昨今、文庫本も高くなった。総てのものが値上げしているのだから仕方ないと言えばそうだけど。それでも電子機器に比べれば安いものだ。読みたい本がたくさんある。文庫本にならないかなあ