4201プロジェクトルパン(1)

2024年02月25日(日)

 ぼくが新採用のころはまだ教室にあるオルガンは足踏み式。「んんふぅおおおおん。」と何ともアタックの無い音だった。音楽室にある楽器もピアノ、オルガン、それにアコーディオン。とにかく鋭い音が出せず「ださい!」と思っていた。ぼくがルパン三世を演奏するようになったのは教員になって3年目位かな。どうしても格好良い演奏したくてルパンを選んだ。曲研究には今では知らないだろうけどレコードしかもドーナツ盤だった。ドーナツ盤だと途中のアドリブソロが省かれていたりして「なんだよー。」と苦労した覚えがある。レンタルレコード店があってそこから音源を探したりした。

 弾きやすいAmバージョンを作成。ベースパートがうまく出来なかったので、クラスの子のお父さんがジャズアレンジャーの方がいて、ベースパートを作ってもらった。

 楽器は当時ようやく一般人も買える価格のシンセサイザーを購入(コルグというメーカーのポリ800。⒑万円。ヤマハのDX7。24万円。よく買ったなあ)

 切れのいい音を出すのには自腹しかなかったのね。

 ところでルパン三世のテーマはいろいろあるけど、有名なものは3種ある。最初のオリジナル。ルパン三世79はディスコバージョンでシンセサイザーがメイン。ここまではある程度わかりやすかったけど、このルパンって曲はマイナーで出来ている。しかし不思議とマイナー感を感じさせない。そこが難しくて、ぼくは子どもたちに演奏させる度に違和感を感じていた。

 わかりにくいと思うけど、色で考えると良いかな。たとえば原色。「赤」とか「黒」はそれだけで強烈に主張している。それ以外の曖昧さが無い。ある意味とてもきつい。

一方、グラデーションや、混じり合った色だと微妙なニュアンスが出る。宇宙空間をただ真っ黒に塗ってしまうと単調だ。しかし微妙に色を混ぜたりすることで奥行きとか広がりを表現できる。黒い服を絵の具で塗るのもただ真っ黒にしてしまうと平板だ。しかし、光や影の微妙な部分を入れることで立体的に見えたりする。

 ルパンを表現するのにAmは強すぎてマイナーな曲調になってしまう。それがどうも気に入らない。

 小学生用の合奏譜でもこれは難しいようでAm一色で押し通すしかないようだ。それを聞いてしまうとどうもルパンらしくない。小学生の演奏ではこれが限界なのだろうか?

 小学校の合奏だとジブリ作品が使いやすい。年代や、時代に左右されない認知度がある。

さて先ほど書いたけどルパン三世には3種のバージョンがあり、宮崎駿がやった「カリオストロの城」での挿入曲ではルパン三世80としてリニューアルしてある。このバージョンは実にジャズっぽい。先ほど書いた和音については、一番難しく、単純な和音では無い分、さらにおしゃれになっている。当然難しいので合奏譜でもなかなか見つからない。ブラスセクションが格好いいのでブラスバンドの合奏譜がチョー難しく、小学生では到底手の出ないものであった。ルパンへの道は近いようで遠い。

ルパンカッコいい!

 

4197幼稚園バッグ

4197幼稚園バッグ

2024年02月16日(金)

今の幼稚園バッグかな?

①究極のバッグ?

 幼稚園バッグ。みなさんはどんなイメージをお持ちだろうか?ぼくは、あの黄色いbox型のものを思い浮かべる。奥行き若干あり、表面はザラっとした象の皮膚っぽい感じ。ビニール製で硬め。あまり高級感は無い。これまた硬めのストラップがついている。表には窓のようなポケットがありそこに名前やら教室名我はいるようになっている。ジッパーも硬め。こんなバッグにいったい幼稚園児はなにを入れているのだろう。子ども自体はバッグの中身にはほとんど興味がない。連絡帳みたいな「大人同士のやりたりツール」が入っているくらいか。

 そのシンプルさがなかなかに格好良いな。必要最小限なものだけ。まあ子どもには自身が必要として中身をパッキングしているわけではないけど。

 あのくらいシンプルな荷物の持ち方が出来たら良いなあと思う。ここから発展して自分の鞄を展開していくんだろうか?ハンドバッグとか、クラッチバッグ、デイバッグなど。人間、本当に鞄なしでは生きてけない感じ。その形や大きさは千差万別だ。それが個性でもあるんだけど。

 自分が使ってきたバッグを時系列に思い出すだけで、自分の反省史が出来そうだ。そんな鞄を使っていた自分はどんなことをしていたのだろうと思い起こすことがあるだろう。

 学生時代は制約があり、鞄自体は学校である程度統一されてたかもしれない。小学校の頃はランドセル。中学校の時は肩掛け鞄で(これ丈夫で今でも欲しくなる)その後サッカー用のずだ袋。マジソンスクエアガーデンのバッグ(流行だった。そこそこやすい。しかしマジソンスクエアガーデンって一体なんだろう?字が書いてあってそれって宣伝広告じゃんと思ってた)高校は皮の鞄。大学でようやくデイバッグに出会う。こん便利な、ものがあったのかと感動。それ以来デイバッグばかりだ。

 デイバッグプラスウエストポーチ。貴重品はウエストポーチだ。そんな時代を感十年も過ごしてきたけど、最近、ちょっとしたバッグが欲しくなった。幼稚園バッグっぽいものだ。肩からたすき掛けして使う。デイバッグは背中なので荷物を取り出すときはいちいちおろさなければならない。ウエストポーチでは容量に限界がある。その点幼稚園バッグタイプならちょっとした書類、文庫本、コーヒーポットを入れて、いつでも取り出せる。バッグをおろさなくてもその場で取り出せる。ひょっとしてなかなかの優れものかな?

 幼稚園バッグ。だけど暑くて着ていた服を脱いで入れるのは無理。やはりデイバッグは必要になる。まあ適材適所だな。

 いきなりキャンプの話になるけど、「何を持って行くか?」ではなく「何を持って行かないか?」ということになる、荷物は持ち始めるときりがなくなるほど持ち歩いてしまう。予備にとか、万一に備えてなど、それがきりがなくなる。バッグに入れるもの。もう一度再点検したいものだ。シンプルに幼稚園バッグに。軽いもので軽い足取りでお出かけしたいものだ。

 

4196本の大きさ

2024年02月16日(金)

①文庫本文化

「本はハードカバーだろう!」ぼくはそんな時代が長かった。安易な、簡易な文庫本を嫌っていた時代がある。がっつりしっかり単行本に向かっていく、そんな構えが自分的にはかっこいいと思っていた。そんなことだから本棚にずらっと並んだハードカバーの重厚なスタイルが気に入っていた。本には「本になる」必然性がある。そして初版に出た本のスタイルがその本の性格を表すことになる。だから再版されて表紙や装丁が変わると「え?そんなだったっけ?」と首を傾げたくなる。これは昭和のレコード世代。レコードのジャケットにこだわるところににている。レコードの場合はジャケットが命ってくらい。変形ジャケット、変わり種、仕掛け絵本タイプ。これらがCDになってほとんど全滅。平板な画一的なプラケースになってしまった。本も同様。同じハードカバーとはいえ、その作り方、紙質、帯など多彩だ。それが文庫になると総て一律。ただの四角い板チョコになる。その無個性さがいやだった。様々な本が自身を主張する単行本スタイルが好きでこだわっていた。特に難しい本の場合、文庫本の小ささは「ようし、やったるで。」という気持ちを削ぐ。ちっこいし、ページも進まない感じ。

②弁当箱

 最近、その考え方が変わった。一様な大きさの文庫本は謙虚な感じ。同じ形だけど中身が大幅に違う。そして内容のある本だとその意味の含有量はハンパない。それが小さな筐体にぎっしりと納められている。それでいてハンディ。まさに究極のモバイルガジェットだ。電源要らず。どこでも読める抜群の携帯性。日本家屋の事情にも優しい省スペースである。ぎっしり詰まったお弁当箱のようなイメージだ。

 自分の部屋にいくつもの本棚を置いて本をたくさん収納していた、そんな時代は終わった。インプットではなくアウトプットのためのツールとしての本だ。そうなると読み終わった本。必要なものもあれば、読んで終わりというものもある。せっかく購入した本だからもったいないと思ってきた。その気持ちは痛いほど分かる。大学時代、バイトして本を買っていた僕としては本はとても貴重だった。しかし、今は違う。読んで自分に入ったものだけで十分だ。

 こうなると図書館の利用も始めてみた。今まで図書館ではろくな本がないと思っていたけど、行ってみるとかなりおもしろい。自分では決して選ばない、ジャンルの本に出会える。ただし、読むのが遅い僕にとっては2週間の貸し出し時間はあわただしい。だからやっぱり本を買ってしまう。今のところは本は紙出読むキンドルっぽい。読んだら終わり。処分もOK。お金を払って本を読んでいると言う状態だ。無限貸出期間の本を借りている感覚だ。

 で、やはり文庫本。これは日本の優れた知だと思う。ありがたい。分厚いずしっとくる文庫本を手にすると幸せを感ずる。昨今、文庫本も高くなった。総てのものが値上げしているのだから仕方ないと言えばそうだけど。それでも電子機器に比べれば安いものだ。読みたい本がたくさんある。文庫本にならないかなあ

 

4191誰もが役者だ

4191誰もが役者だ

2024年02月03日(土)

①どんな人になるか?

「はい!斎藤でございます。どちら様でしょうか?」電話口に出ると普段とは違うトーンで話し始めますね。声は高くなり、やたら丁寧な話し方になります。自分ではあまり意識してないかもしれまっせんね。しかし、身内が電話口にでている様子を聞いているとすぐに分かりますね。そう、人は電話口で演技しているんです。こうしたことは、親しい人に会ったとき、または上司と話すとき、お客さんと商談するとき、など、きっと誰もがだいなり、しょうなり使い分けているのではないでしょうか?

 じゃあ、どれが「本当の自分」なのでしょうか?合氣道の先生と話すとき、学校管理職と話すときはかなり違います。管理職でも校長先生と話すときと教頭先生と話すときは違います。

 こんな様子を見ながら「本当の自分」はどれなんだろうと考えること自体あまり意味のないことだと思いますが、どうでしょうね。どれもが「自分」

②じゃあどんな自分でいたいのか?

 ここから。結局自分という人間を演じているんですね。としたら「どんな自分を演じたいか?」ということだと思うんです。鬱でマイナスな自分を演じるのか、明るく元気な自分を演じるのかは実は自分の心次第ってこと。

③総ては自分のせい?

 合氣道では組技を使ってあえてストレスをかけ、相手を敵としてではなく、相手と一体となり相手のやりたいことをさせる、ということにある。手を捕まれたとき「あー、もう自分は捕まってしまって駄目だ!」と思ってしまうけど、捕まれた手首だけであり、ほかに動かすところ、自由な場所はいくらでもある。「捕まってしまった」ととらわれてしまうのは自分の心だ。手首にだけ執着していると言っていい。それに気づき、そこから自由になれるのが稽古だ。自分はいつでも自由であり、本来いつでも自由だ。そしてそれを縛ってしまうのは実は「自分」なのである。「完全に駄目」なのか

「自由なところはいくらでもある」は自分が決めている。これを自覚するのはなかなかに厳しいことだけど、本当には自由であり、楽な生き方になる。しかしなかなかそうは思えない。「世の中」「仲間」「上司」「敵」のせいにしたくなる。実はその方が自分で努力するのではなく「他人のせい」で生きれる。これが実は楽だからだ。「人のせいにしていたら楽でしょ?」と言うと激怒されてしまうかもしれない。「そんなにうまく行くはずがない。」「要は心の持ちようだってこと?そんな簡単なことじゃない!」と言われてしまう。しかし「心の持ちよう」なんだな。自分が決めていること。自分が「他人からいじめられている」という役を演じていることだ。

 それをまずは気付くこと。そして受け入れること。そのことが分かれば、いろいろなことがほぐれてくる。

 困ることがあると八方ふさがりと考えがちだ。しかし、そう「決めている」のは自分自身なのだ。

「理屈としては分かるけど。」と言われる。確かに。しかし、それは本当の意味で「分かった。」ことにはなっていない。頭の中で「理解」したことは本当に分かったことではない。身体に入れるには時間がかかる。何度も繰り返し自分に入れるようにしていくしかない。それはとても地道な積み重ねだ。

大切なことは総て砂場で教わった

大切なことは総て砂場で教わった

2024年01月13日(土)

①お前が悪い

 いい天気。コーヒー最初の一口。清潔な店内。ありがたいとしか言いようがない。石川県地震のなくなられた方、ご冥福をお祈りします。また被災者のみなさんにおかれましては一日も健康で安心できる環境が整うようにお祈りします。

 ぼくは今暖かい日常を過ごさせてもらっている。この何気ない日常が一瞬にして崩れ去ったことを思うと何ともいたたまれない気持ちになる。

 情報の提供が精緻になり、細かな内容が溢れてくる。ウクライナ、ガザ、北朝鮮、台湾、中国、沖縄。

 先日、学校で。楽しく遊んでいた子どもたちがいきなり取っ組み合いの喧嘩。担任の先生が「離せ!離せ!」と言っても一向に聞かない。行ってみると相手の引きちぎるくらい強い力で髪の毛をつかんでいた。激しい憎悪。ぼくは努めて穏やかに「わかったよ。まず離そうね。」と言いながら大人でもかなりな力で指一本一本をはがしていった。ようやく二人を離し担任が一人を静かな場所に連れて行った。

「やられたらやり返す。」「おまえが先にやった。」「報復だ。」「あんなに殴られた」「蹴られた」

 この子どもの喧嘩。今は大人がやっている。国同士がやっている。「お前が爆撃した」「民間人を殺した」「報復だ」全く変わらない幼稚な論理だ。事情があるのは分かる。いや外野のぼくにはそんな深いことは分からない。でも髪の毛をつかんでいる「今」手をまず離そうよ、が何故出来ない?「だってこいつがはじめにやったからまず10人は殺させろ!」という負のスパイラルにはまりこんでいる、まずは「やめろ!」「やめよう」だろう。結局は為政者の利益のために罪もない人々が殺され、人質になり、難民となって苦しむだけだ。所詮分かり合え無いものだ、とうがった訳知りの答えは要らない。

②砂場

「うちの学校の砂場。かちかちでね。放課後先生方で耕そうと思ってたけど、出来なかったから今日の幅跳びは出来ないなあ。」と3年生の先生がぼやいていた。それを聞いて「あ、それなら理科の時間に子どもたちで掘りましょうか?」と提案。身体を動かしたい子どもたち。それに砂遊びも入れれば喜ぶのではないか?ということで「理科の時間、子どもたちと掘りますね。」

 ということで理科の授業。外で砂鉄を集める磁石の勉強とタイアップして砂場へ。「ここは君たちが幅跳びをやるために砂を柔らかくしたいのですがお手伝いできますか?」というと大喜び。「先生が一番困ることは何かわかる?」と聞くと「話を聞く」「ふざけない」「ちゃんとやる」という意見が。「あーそうだね。でもそれ皆出来てるよ。」「じゃあ何だろう?」「喧嘩しないでね。喧嘩してもめちゃうとつまらなくなるし、それを止めてるだけで遊ぶ時間がなくなっちゃウンだけ・・・・。喧嘩しないで出来る?」「出来る!」作業開始!

大まかに大きなスコップで掘った。何せ多勢に無勢。人海戦術。あっというまにかなり掘れた。「じゃあ大きいスコップを片づけて。」「小さいシャベル使っていいよ。遊ぼう!」とやりました。3年生大喜び。みんな山を作り始めました。楽しいねえ。山や谷がみるみる出来ていきます。砂の感触が気持ちいい。堅い固まりの砂を砕いて細かくするのも楽しい!「土、運ぶね!」「白砂まいて雪にしよう!」ぼくももちろん参加。「そこを掘るなよ。」「じゃまするなよ。」などの声が出てくるけど、でも直ぐに工夫し解決している。相手のことを考える。「大きいシャベル貸して。」昨日取っ組み合いの激しい喧嘩をしていた子だ。今日は穏やかに話していた。これは砂場と言う場の力があると思う。作業をしながら皆が楽しむ方法を工夫し学んでいける場として最適だ。何より単純に楽しい。

内在的論理

内在的論理

2024年01月29日(月)

①相手の論理を理解する

 たまたま夕飯を食べながらテレビを見ていた。NHKのクローズアップ現代。怖い顔の人が出てきた。佐藤優だ、「テレビにはめったに出ませんね。」と解説者の言。そうらしい。そんな方が特別にテレビに登場するというので食指動かされた。この佐藤さん。容貌が失礼だが「怖い」しかしニュース解説でわかりやすく、切り込んで話してくれる僕の好きな池上彰さんと共著の本が多く、とても気になっていた人物だ。

 元外交官。ロシア、ソビエトに精通しロシア、ソビエトの重要人物との人脈が広く、絶大な信頼を得ていたそうだ。今、ウクライナ、ロシアの戦争が続いている中、ロシアのことに精通している佐藤さんがこの戦争に対してどのように話すのか楽しみだった。

 それから、佐藤さんは微罪で逮捕され、512日に及ぶ拘留生活を送った。そして今は作家だという。実に異能の経歴を持つ。

 後でその真相を本で読むことになるが「外務省のラスプーチンと呼ばれて」と言うことらしいが、そんな異名をとるそんな佐藤さんのことが知りたくなった。

佐藤さんはクロゲン(クローズアップ現代の略)「内在的論理を理解しないといけない。」と語った。

②内在的論理とは

 ざっくり言えば「相手の言い分」だ。「あれだけ残虐なことをした。しかし、それはどんな相手の論理から来ているのかを理解しなければならない。」残虐。暴力。許されることではないのだが、その現象面だけではなく「何故その行為に至ったのか?」をお互い読み解く必要があるということだ。

 現場を僕の職場に目を向けてみよう。発達障害の子どもたちが増えている。その原因については今はふれない。友達をいきなり突き飛ばしたり、順番を守らなかったり、人のものを取り上げたり。「そんなことして良いの?」「駄目でしょ!」が通じない。何という傍若無人な連中だろうと思う。多人数を相手にする一斉授業ではこの出来事が授業をストップさせ、その対応に奔走することになる。ほかの子はその間、置き去り。

 教師はこの対応でかなり疲弊する。罵声を浴びせてくる子どもの対応で精神的にダメージを受ける。

 何故この子たちは決まりを守れないのだろう?わがまま?もちろんそれが大きいかもしれない。しかしその子たちにはその子たちなりの「内在的論理」がある。「悪口を言われた(と思った)」「早くやりたい。」「一番になりたい。」「相手がじゃま(自分を妨害している)」「それが欲しい。」「さわりたい」その子なりの「言い分」がある。言い分というと表面的な反応に見えるが、実はそこに「内在的論理」がある。「いつも自分だけやられている。いじめられている」(被害妄想?)「自分のほかに自分と同じ人がいることに気づけない」内在的論理から、その行動が出てくる。

③脅威

 池上さんの話には常に「ロシアは第二次世界大戦」で侵略出大きな犠牲を強いられたことを忘れられないと言う話が出てくる。それがロシアの内在的論理だ。

 何の罪もない人々が殺されている現状は悲惨だ、しかし、それは今回の戦争が初めてのことではなく、ヨーロッパやそのほか侵略は数千年にわたって繰り広げられており、単純に現代だけをスポットに取り上げても見えてこない。相手の内在的論理を理解する為にも勉強が必要だと痛感する。

パーフェクトな日

パーフェクトな日

2024年01月22日(月)

  • 朝の魅力

朝が大好きだ。それがたとえ真っ暗な夜明け前でもたまらなく好きだ。「これから始まる」わくわく感が半端ない。きりっとした冷たい空気も清々しく気持ちがいい。熱々のコーヒー。思わずびりっとくる熱いお風呂。これから始まる丸々ある一日。日めくりカレンダーのように前日をビリビリと破り、新しい面が出てくる新鮮さ、新しさ、新品な感じ。下世話な言い方だけど使われていないピン札の一万円札を手にしている感覚。

ウィムベンダーギャスト監督。役所広司主演「パーフェクトデイズ」の初頭のシーンはそんな朝を描いている。近くのお寺の坊さんが道路を掃いている竹箒のザッザッという音で目が覚める。布団の畳み方、歯磨き、つなぎ(作業服)を着て玄関先に並べてある鍵やフィルムカメラ、小銭をポケットに押し込み、玄関を開けて、空を見上げてほほ笑む。アパート前の販売機で缶コーヒーを買う。車に乗り、公共トイレ掃除の仕事を始める。そんな毎日を何回も見せる。同じこと、ルーティン。何事もない平凡な毎日。それを監督は描きたかったのだろう。そしてその中に豊かな幸せがあるということ。朝の気持ちよさ。大切にしているだろうか?何気ない日常に役所広司のように微笑むことが出来るだろうか?

「ハッピーストレス」(青砥瑞人 SBCクリエイティブ)「日常のささやかなポジティブを脳に刻み込む」

  • 自然とは、動植物、人、風景のことです
  • 旅行などの大きな環境変化のもとではなく日常生活で行ってみてください
  • 大きく心が揺れ動くようなポジティブな感情ではなく、ささやかな反応に注意を向けましょう
  • 「間」を持ちましょう。その瞬間の心地よさを感じている自分に意識を向け、その状態に気づくことが大切です
  • ポジティブな感覚を、少し目を閉じて、すぐに脳で追体験します。

 ストレスを悪いものとだけ考えるのではなく、成長のための道具だと考える作者の丁寧な本だ。触発される。

 自分はこれから何をしたいのだろう。そんな時に本は指針になる。また、年上の先輩方の生き方がお手本になる。

 退職から8年。退職のショックは再任用とか非常勤で緩和されている。しかし、このままずっとはいかないだろう。じゃあ何をしていくのか?

 自分の行為を誰かにわかってもらいたい、知ってほしい、ほめてほしい、凄いと言ってもらいたい。これは決して良いこととは言えない。他人の評価に頼った態度だ。それがSNS。人間は群れで生きているから「わかってほしい」はある。しかしそれが過度になってしまうと、きりがなくなる。

 何かを追い求めていくと、目の前の豊かさを忘れてしまう。「青い鳥」の話のように結局は幸せは足元にあったということ。現代はSNSの承認欲求と、モノ・カネに走っている。目に見えないもの、またはみようとしない世界にこそ豊かなものが溢れているのだろう。それに気づかないのか、気づかれないように操作されているのか。ぼくのパーフェクトデイ。